盛岡”周縁”音楽史-金野吉晃インタビュー

金野吉晃プロフィール
1957年、盛岡生まれ、現在も同地に居住。即興演奏家、自主レーベルAllelopathy 主宰。盛岡でのライブ録音をCD化して発表。 1976年頃から、演奏を開始。第五列の名称で国内外に散在するアマチュア演奏家たちと郵便を通じてネットワークを形成する。 1982年、エヴァン・パーカーとの共演を皮切りに国内外の多数の演奏家と、盛岡でライブ企画を続ける。Allelopathyの他、Bishop records(東京)、Public Eyesore (USA) 等、英国、欧州の自主レーベルからもアルバム(vinyl, CD, CDR, cassetteで)をリリース。 共演者に、エヴァン・パーカー、バリー・ガイ、竹田賢一、ジョン・ゾーン、フレッド・フリス、豊住芳三郎他。

盛岡即興シーン黎明期

ーーー盛岡の音楽シーンは地方都市としてはかなり隆盛してると思うんです。人口約30万人のこの町で、フリージャズや即興音楽、プログレやノイズといったライブをやる時、人口あたりの集客や対バンを含めた面白さは、例えば100万人都市の仙台より上だと思うんです。これに至った経緯は何なのかと。

金野 君は日本各地も世界を見ているから、そういう相対的な視点があると思う。俺はほとんどもう盛岡から出てない。まぁあちこち行ってるけど君ほど広くない。だけど逆に定点観測してるから見えるものはある。その、対バンとかが面白いってのは、盛岡はある程度狭いからみんな知り合いっていうのはあると思うんですよ。

ーーーにしては面白いプレイヤーの数が地方都市にしては多いと思います。金野さん含めていろんな人が海外招聘とかを盛岡でやって、それが一つの火種になったと思うんです。

金野 外タレとか他の町の人を呼びやすくなったのは明らかに新幹線以降かな。

ーーー東北新幹線は昭和57年(1982年)の開通ですね。

金野 ちょうど俺が卒業したのが82年で、その年に呼んだのがエヴァン・パーカーだったから。

ーーー金野さんは20代の頃から夜行列車に乗って吉祥寺マイナーでライブをやったり、デレク・ベイリーを見に行きましたよね。そこで得た情報や熱量を盛岡に持ち帰ってきて自分なりにどうにかやる、ということはありました?

金野 あのね、持ち帰ってみたもののどうにもならんのね。結局熾き火にしかならないっていうかさ。自分の中でブツブツしてただけなんだけど。僕の場合は第五列というのをやってた。

   流れで言えば、仙台で1年浪人をしていた時に知り合った友達(※第五列のメンバーGESO、村中文人、佐藤一樹)が青森の連中なんだけど、例えばGESOくんは京都の大学に行ってたし佐藤一樹は法政に行ってた。​それぞれの情報をいろいろ教えてくれていたから「そうか、俺も大都会の大学に行ってそういう活動したいな」とか思ったわけだ。

   でも他に行くところもなくて結局岩手医大に入っちゃったんだけど。でも岩手も75年にすごいことがあったの。75年に環境芸術祭ってのが始まったのね。

   これは現代芸術の一つの動きだったんだけど、大宮政郎(※岩手県奥州市出身の美術家。盛岡における前衛美術運動の中心人物)さんとかがやったりしてね。この時に小杉武久(※作曲家、演奏家)とか来てるんだよね。音楽というよりはいくつかのパフォーマンスを同時に進めるみたいなね。間章(※音楽批評家)と清水俊彦(※音楽評論家、詩人)と一緒に来ていろいろやったのね。

   清水俊彦に関して言うと、昭和30年代から盛岡に何回も来てて、盛岡のモダニズムな人たちとモンタン(※1960年代に盛岡に開店した画廊スナック)で集まってジャズのレコードコンサートとかしてたわけ。清水俊彦は盛岡にすごく縁があったのね。それで間章とか小杉武久を呼んだっていう。それが繋がったのは、高橋昭八郎(※詩人。岩手県北上市出身)が清水さんと仲が良かったのね。清水さんも高橋昭八郎さんも北園克衛(※三重県出身の詩人)のグループの一員だったの。

  あと、70年代後半からこっちにもいろいろミュージシャンが来るようになって。例えば75年には仙台にハービー・ハンコックとキース・ジャレットが同じ日にやってる。同じ年に盛岡にリッチー・バイラークが来てる。それから76年の頭にはフランク・ザッパが日本に来てる。というようなことがあって、これから面白くなるんじゃないか?ってワクワクしてたのね。ちょうどその頃から即興演奏のレコードを聞き漁り始めた。仙台でそういうのが手に入りやすかったから。盛岡じゃ絶対手に入らなかったからね。

ーーー環境芸術祭は見に行かれました?

金野 ちょうど浪人中で見れなかった。もう仙台にいて。

   当時ジャンルを超えたインターメディア的な考えってのが増えてきたから、ジャンルにとらわれない芸術祭をやりたいっていうのが大宮さんたちの考えだったのね。俺はどっちかっていうと音楽ではなく美術系の人たちとの関係が強かったね、あと詩人関係。音楽のシーンって言うか盛岡でやってる人たちのことを知らなかった。あんまり食指が動くものがなかった。だから友達で好きな連中が集まって聞いたりとか。

ーーーもしも金野さんが即興演奏ではなく作曲作品をメインにやる人だったら、盛岡のシーンはここまできたかなっていうのは思うんです。

金野 それを言えば、僕らの世代でアートシーンで特徴的だったのは、ジャンルとしてパフォーマンスっていうのがあった。それはそれ以前にはハプニングとか言われてた。

ーーーオノ・ヨーコしかり。

金野 そうそう。だから、僕らからすれば「オノ・ヨーコもパフォーマンスだよ」と。ハプニングって出来事って言うでしょ?で、パフォーマンスって言うのは「もっと意図的に何かやる」。で、ハプニングでもパフォーマンスでもないのってイベントとか出来事とかアクシデントとかって言う。

 イベントとアクシデント、それからパフォーマンスとハプニングみたいな、そういう美術的な意識だから。あと面白いのは、ニューウェーブのバンドなんかもそうだけど、美術系から入ってきてるでしょ?ブライアン・イーノだとかトーキング・ヘッズにしても。だから美術系の頭から入ってるっていう方が近いかもしれない。

ーーーなるほど。音楽よりも。

金野 パフォーマンスっていう意識でやってるかな。

   僕らはその頃、即興演奏に関しては年に2~3回夏休みとか冬休みとかに集まってライブを企画したり録音したりとかしてたんだけど、やっぱり即興演奏なわけよ。リハとかできないし。だけど例えば、頭の根っこがジャズとかになくてロックにあるーーつまりジャズを根っこにした即興演奏じゃなくてロックを根っこにした即興演奏。だからヘンリー・カウとか聞いて「すごい!」と思うんだよね。「ジャズベースではない即興」みたいなものを考えていろいろ始めてる。それが集団即興だったよね。

   作曲っていうのは、構成されて緻密に準備して作品を上演するのに練習と演奏家がいて再現性を重視する。だけど僕らは一回性とかその場主義みたいな、その場で集まった人間で何が起こるかみたいな方を重視してる。

   だから、パフォーマンスオーガナイザーっていう意識。自分自身もそこに入ればパフォーマーの1人なんだという意識。こういうのはイギリスの実験音楽によく見られたことだし、集団即興演奏というものについてかなり研究した。

ーーーその頃盛岡で集団即興をやろうと思った時、参加者をどうやって探しました?

金野 さっき言った村中くんが岩手大学に入ったので、彼の周辺の詩人関係の仲間だとか。あと中坪さん(※金野曰く「音楽と映画の師匠」)がデンコードーのレコード部にいたので。俺がけったいなもんばっかり買ってたら話をするようになって、お互いの家に行くようになった。中坪さんはすごい機材を持ってたから「これ使っていろいろやりましょうよ」と。中坪さんも音を出すことはその当時やっていたので。

ーーー楽器を演奏したり、詩のパフォーマンスをやる人がいたり。

金野 うん。みんなそんなに普通の意味で演奏できる人ではない。だけど音を出すことに対して面白みを感じてくれる人、それでいいって思ってた。

ーーーそこから少しずつ広がっていったって感じですか。

金野 そうですね。休みのたびに遠くから来たりとか俺が行ってやる、っていうので少しずつ溜まっていった。京都だったら西部講堂で企画がある時とかさ。
   そんなこんなで徐々に知り合いが広がっていって、岩手大学の連中と付き合うようになってきたわけだ。ロック研とか「音楽一筋」みたいな人もいたけど、もっと変なのを聞きたい連中が集まってN-JOYっていう集団を作ってたのね。そこにいた戸沢くんっていう人とすごく仲良くなって。それで「一緒に録音しよう」って話になってバンドをやったりレコーディングしたりっていうのが続きだして。だんだんやってることがパフォーマンスというより音楽になってきた。

ーーーそういう繋がりの緩やかさが、盛岡のシーンが発展したポイントだと思うんです。ガチガチだったら、それって閉鎖的ってことじゃないんです。

金野 そうそう。でもある意味、盛岡全体としては保守的でもあったよね。盛岡って受け入れるけど跳ね返すこともあるんだよね。これもよく言う話で、ツアーしてくる人たちが「盛岡はノリが悪いから初日と楽日にするな」って言ってたらしい。

ーーーそれはもう県民性とか市民性みたいな?

金野 ある。フレッド・フリスが3回盛岡に来たけど、最後に来たときに「前スケルトン・クルーで2回来たよね」って話したら「覚えてる覚えてる。盛岡2回とも出来悪かったもん」って言ってた。

東京と地方

金野 俺はね、東京ってそんな好きじゃないんだよね、実は。今は特にそう。選択とか情報が多いと迷う。盛岡に帰ってきて新幹線の扉が開くとほっとする。

ーーー東京はライブハウスもミュージシャンも多くて、同じ日にバッティングしまくってますよね。その点地方の方が良い環境かなと思います。盛岡でライブを企画する場合、お客さんはそこに行くしかない。

金野 棲み分けだよね。

ーーーはい。それで、このインタビューをやろうと思ったきっかけというのが、金野さんが企画したサインホ・ナムチュラクのライブで。会場が満員だったじゃないですか。あれにびっくりしたんですよ。

金野 掻き集めたもん、俺。

ーーーとは思いました。にしても凄い。30万人都市であの会場をパンパンにするっていうのは、東京で換算すると何千人単位の人が来るってことでしょう。金野さんが客を掻き集めたっていうのもあるでしょうけれども、「金野さん企画だから行く」「サインホだから行く」っていう人があれだけ集まったのも事実なわけで。

金野 あの、ケースバイケースだと思う。例えばアルハンゲリスク(※ソ連のジャズバンド。金野さんは89年盛岡公演を制作)の時みたいに200人ぐらい集めたこともある。だから「こいつはまずい」「失敗するとえらいことになるぞ」と思った時は相当に力を入れて集めるもんね。そうすると何とか1万人に1人が来るっていう感じで。あと「友釣り」っていうのもある。「誰それさんが行くなら行く」みたいなね。1回ライブやるごとに200枚ぐらいはDM出してた。「このはがきを持ってきたら前売りにします。お友達が一緒に来てもそうします。」ってね。

エヴァン・パーカーin盛岡

金野 自分で企画したライブで一番人が集まったのはアルハンゲリスク。その次が彩園子(※盛岡にある画廊)で130人。

ーーーそれは誰が来た時?

金野 エヴァン・パーカー。1982年。びっくりした。こんなに人来るのかって。

ーーーそれも金野さん企画で?

金野 俺の企画っていうか仙台の中村邦夫さん(※仙台にあったジャズ喫茶「Jazz&Now」店主)が呼んで盛岡で引き受けた。

ーーー彩園子で130人は凄いですね。やっぱネームバリューが。

金野 いや、全然だよ。だってその時は2度目の来日だからね、1度目は万博か何かの時に来てたのかな。エヴァン・パーカーってその頃は即興系の人たちの中ではソロのすごい演奏で有名だったから。そう言う人たちには知られていたけれど、一般のジャズファンには全く知られてないんだよ。何で来たのかよくわからない。で、思うのが、当時はまだ外タレとかアバンギャルドなものに飢えてたんじゃないかと。もしかしたらすごいものが見られるんじゃないか?という期待感で。

ーーーそれは金野さんが共演するために呼んだ?

金野 中村さんが物凄くエヴァン・パーカーに惚れ込んで呼んだわけ。実はその前年だったかに俺はいきなり中村さんの店に行ってグレッグ・グッドマン(※ピアノスト)に殴り込みをかけて。彼はエヴァン・パーカーとも共演してるのね。俺は知っていたから仙台に行って、いきなり「一緒にやらせてくれ」って言ったのよ。そしたら中村さんは「うーん、どうかな…」って言って。グッドマンに聞いたら「OK、一緒にやりましょう」って言ってやったんだよ。

   82年にエヴァン・パーカーが来る時、中村さんに「(盛岡での企画は)やりますけど、共演させてください」って言ったの。「うーん…いいでしょう。だけど条件があります。絶対に人に言わないでください。録音も出さないでください」って言われた。何でかって言うと、当時エヴァン・パーカーって人気が出てきたから「一緒にやりたい」って人がいっぱいいた。でも中村さんはできるだけそれをさせたくなかった。俺は許してもらった2人のうちの1人なのね。もう一つは福島のグループ。俺はエヴァンと2人だけで演奏した。実を言うともう1人美術家がいたんだけどね。美術家は美術の方だけだったから音とは関係ない。それは録音に残してるけど、非常に好評でした。

   それで92年に中村さんが急に亡くなったんですよ。俺、1年間ぐらい知らなかったの。それで「最近どうも通販のお知らせが来ないな」と思ってて。仙台に行ったら奥さんだけ店にいて「実は主人亡くなりました」って。

   「追悼の何かあるんですか?」って聞いたら「いえ、実は皆さんにお知らせしてないんです」「そうなんですか」って言って。俺、その後しばらく考えて「エヴァン・パーカーとの共演は私の初めての外タレの企画でした。その録音が残ってます。もう1回やったのも残ってます。中村さんに止められたけども、これを追悼盤として出したいです。申し訳ないですけど、どうですか?」って聞いたら、「私は良いです。あとは弟に聞いてみます」で、弟さんもOKだった。それで出したのが俺の初めてのCD。だから「Dedicated To Kunio Nakamura」って書いてるの。

ーーーそうだったんですか。

金野 嬉しかったのはね、中村さんが病院のベッドでカセットテープ聞いててね。奥さんが「金野さんの聞いてましたよ」って言ってた。正直かなり変なことやってて、トロンボーンにサックスのマウスピースをつけてた。「笑ってましたよ」って(笑)。

ーーー金野さんが「共演も兼ねて企画した」っていうのは大きいと思います。

金野 卑怯な話、コンサートで一番偉いのはプロデューサー。旦那芸ってやつだな。「私がご祝儀を出してるんだから、私がプロデューサーで一番偉いから文句は言わせませんよ。私のお金でやってるんだから」みたいなね(笑)。情けない話ですね。

ーーーいやいや。それで盛岡のシーンがどれだけ育ったか。

金野 俺はとにかく「自分でやりたいから呼ぶ」みたいな感じがあるんで。さっきの話は冗談だとしても、共演する機会が無いなら自分で作ればいいじゃないか。お金を出して来てくれるならいいじゃないかって思うわけ。というのは、俺がもし東京なんかに行って「やらせてくれ」って言っても誰もやらせてくれない。プロデューサーも別だから。俺が呼べば独占して話もできるし。のみならずね、東京とかに行っちゃうとone of themでしょ。こっちに来ればオンリーワンなわけ。そういう意味では強いよね。

ーーーオーガナイザー以上にプレイヤーとしてのご自身があるから、パーカーとの共演になったと思うんです。パーカーのことを広めたいし、ご自身のプレーヤーとしての側面も人前に見せたいっていう。

金野 そうそう。自己主張はあるよね。

ーーーそこはやっぱりミュージシャンだと思います。

金野 やっぱりそういう意識もあるとは思うね。ただ、そんなに自信はないのね。ないけど「ちょっと人前でやってみたいな」みたいなね。そこはどこまでいっても中途半端だなって思ってるよ。自分がやってることに対する自信とか、そういうものを持ち上げてはいない。

ーーーでも普通の人以上の美感はお持ちじゃないですか。

金野 それはあるかも知れない。少なくとも広い。

ーーーその裾野の広さもシーンの隆盛に繋がってませんか?つまり、音楽も話せるし映画も話せるし絵画も現代詩もパフォーミングアートも、っていう見識の広さが。

金野 それは長く生きてきて、しかも好事家が故の性格なんで。好事家って一つのことだけじゃないって人が多いから。

孤独の在り方

ーーーこのインタビューのたたき台として金野さんとメールで何回かやりとりしましたけれども、その中で「一時期孤独だった」って仰ってましたよね。それがとても引っかかっていた。とてもそうは見えないし。それはどういう時期でどういう事情だったんですか?

金野 今でも割とそういうものはあると思うんだけど、結局自分のことを振り返って考えるとね、「俺は何をしてきたんだろう」っていう不安に駆られる。つまり、正直言っていろんな事をしてきた。もうとんでもなくいろんなことしてきた。だけど「一体何が残った?」みたいな。結局、それは「自分の中で自分に対して孤立してる」っていうような言い方もあるかも知れない。結局俺は何事もなしえてないっていうような。

ーーーでも、例えば作品が残ったり。

金野 そこなんだよ。「作品を残したい」っていう意識はあるんだけど、「作品なんてどうってもんじゃないよ」っていう気持ちもある。何だろうな、要は残すか残さないかっていうなことも考えるよね。

ーーー​​でも残した方がいいでしょう?

金野 多分ね。残した方がいいのか…なんでいいの?それを考えなきゃいけない。メディア、メモリーそういうもの、そしてそれが一つの形になったとき作品って言われる。それを自分がどういう形で残すかっていうことは凄く考えてる。「自分はいなくてもこの作品が残る」っていうのは、そうなんだろうか?みたいな。もう常に頭の中にそれがあって。結局一つの大きな世界の中で孤立感と孤独感みたいなものがある。それから、自分のそういう感性を共有できる人はいないだろうって思う。そういう孤立感・孤独感。だから、どんなにたくさんの人と会っても寂寥感みたいなものがある。「これでいいんだろうか」って自問自答してる。

ーーーなるほど。孤独っていう言葉は、誰かと仲違いしたとか孤立したとか、そう言うのではなくて。

金野 そういうのはない。でも例えばさっきも話したけども自分の20代あるいは10代の終わりからほとんど周りに仲間がいない。20才頃でももう本当に数えるほどしか仲間はいない。その中で小さくまとまっててもしょうがないだろうという気もするし、それぞれの連中はそれぞれの趣味持ってるから、全然違うっていう。

ーーーなるほど。それぞれの趣味趣向でもって、それぞれが孤立していると。

金野 人は常に帰属意識を必要とするだろう。自分はどこかに属していなくちゃいけない。俺はそれが無い。

ーーー無いからうまくいったんじゃないですか?

金野 そうだね。だから、そういう意味では孤独であること、孤立していることが成功している。

ーーープラスの要素であると。

金野 さっきの「東京に行ったら俺はもうOne of themさ。これぐらいのことやってるやつはいっぱいいるのさ」って。

ーーー埋没しちゃいますよね。

金野 だから情報とか選択に迷わされなくて良かった。地方の方が良かった。最終的にはそう思ってる。昔は「俺も大都会でいろいろバリバリやりたかったぜ」みたいに思ったけど、考えてみたら、地方にいる方がメリットが高いかもしれない。

ーーー「何を残したか」に話を戻しますけれども、「人を残した」っていう点ではどう思います?

金野 いや、よく言うよね。例えば「一番悪いのは金を残すこと」(笑)。

ーーー金野さんが誰々を招聘したとか知らない人と即興演奏をして段々に輪が広がっていった。オーガナイザーと言う点に絞ると、金野さんが招聘したから、noizuさん(岩手のミュージシャン。津山篤やMelt-Bananaの盛岡公演を企画した)が羅針盤を呼んだり真理子さん(岩手のミュージシャン。近年は妖精マリチェルの名で活動)がイルリメを呼んだりしたと思うんですよ。

金野 そうなんですかね。私はあんまり自分では何も考えてないです。多分、黙っててもやる人はやるだろうと思うんですよ。ただ、1人でも企画できるんだよっていうぐらいじゃないのか。プロダクションとか作らなくても個人の責任で個人の企画は展開できますよ、とは感じたかもしれませんね。

(2022年5月19日、ご自宅にて)

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